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鵜飼のあらまし
長良川鵜飼のはじまり
信長公の愛した鵜飼
鵜飼を「見せる(=魅せる)」ことでおもてなしの手法として最初に取り入れたのが、織田信長です。1568(永禄11)年6月上旬、武田信玄の使者である秋山伯耆守(ほうきのかみ)が、信長の嫡男・信忠と武田信玄の娘・松姫との婚約に伴い、祝儀の進物を届けに岐阜の信長のもとを訪ねました。岐阜来訪から三日目、信長は秋山伯耆守を鵜飼観覧に招待しました。この時、信長は鵜匠を集めて鵜飼を見せるように命じています。また、秋山伯耆守の乗る船を信長が乗る船と同様にしつらえたり、鵜飼観覧後も、捕れた鮎を信長自ら見て、甲府へ届けさせる鮎を選んだりするなど、信長流のおもてなしが最大限に発揮されていました。
将軍家の保護を受けた鵜飼
1615(元和元)年、大坂夏の陣からの帰りに岐阜に滞在した徳川家康・秀忠父子が鵜飼を観覧したと伝えられています。その際食した鮎鮨を気に入ったのでしょうか、同年、将軍家への鮎鮨献上が始まりました。同時に、鵜匠には川の自由な航行や、冬に鵜の餌を求めて餌飼(えがい)をすることが認められるなど、さまざまな特権が与えられました。
1646(正保3)年、初代尾張藩主徳川義直の鵜飼上覧を皮切りに、歴代尾張藩主による長良川鵜飼の上覧が慣例とされてきました。また、1688(貞享5)年6月、松尾芭蕉は岐阜を訪れ、弟子とともに鵜飼を観覧しました。その時に詠んだのが「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」です。
天皇家の鵜飼
世界に誇る長良川鵜飼へ
1922(大正11)年、イギリスのエドワード皇太子が長良川鵜飼を観覧しました。その他にも、国内外の賓客が多数、長良川鵜飼を観覧しています。世界の喜劇王チャールズ・チャップリンは、1936(昭和11)年と1961(昭和36)年の2回長良川鵜飼を観覧しており、「ワンダフル!」を連呼し、鵜匠を「アーティスト」と呼んだとも伝えられています。
現在でも長良川鵜飼は、たくさんの観光客が鵜飼観覧を楽しんでいます。昭和40年代には、30万人を超える観覧者数を記録したこともあります。
このかけがえのない日本の宝を世界の宝に、そして未来へと継承していくために、岐阜市は長良川鵜飼のユネスコ無形文化遺産登録を目指しています。